2006年05月02日

text by 友成純一 (映画評論家)
「エッチとアイデンティティとAVドキュメンタリー」

今から二十年ほど前、AVが盛んになり始めた頃のことだが、白夜書房という会社の某ビデオ雑誌(『ビデオ何とか』…題名を失念!)に数年間、AVビデオ評を書き続けたことがある。担当者は四人いて、毎月百本ほどのビデオを四人で手分けして見た。百本ほどを四人で見るから一人二十五本前後、これを締切りの関係から二日ですべて見なければならなかった。本編を早送りするとかパッケージだけを見て書くとか、そういう手抜きはせず、我々は意地で、すべて最初から最後まできちんと見て書いた。どの作品がエッチ度が高くて、どの作品は変態度が高い、どの作品はただのアイドル物で全然ヌケない――なんてのを きちんとチェックした。正直にボロクソに書いたおかげで、製作会社や監督たちの怒りを買ったことも一度や二度ではなかった。

当時はDVDはおろかLDすら出始めたばかりだったから、素材はすべてビデオテープだった。長さは二十分から一時間で、三十分くらいの長さが普通だった。それを二十数本、丸一日掛けて一気に見て、コメントを書く。途中から何がいやらしくて何がいやらしくないんだか、判らなくなる。ましてこれを、毎月毎月、何年も続けていると……しまいには、スケベ感覚が麻痺して、スケベかどうかよりもいかに強烈な刺激に満ちているか、いかに驚きに満ちているか、そちらの方に目が行ってしまうようになった。当時、私はスプラッタ作家並びにホラー映画の評論家としてデビューしつつあったが、私の小説と映画評がセックスを扱っていながらもどんどん変態な、エロよりもグロに限りなく近付いて行った背景には、この時期にスケベ感覚が麻痺するほどAVを見まくった、見まくらざるを得なかったという事情もある。

今も書いたように、当時のAVのラニング・タイムは三十分前後。従って内容は、エッチを一回か二回やったら終わりである。設定も背景も物語もなく、ひたすらエッチであること、あるいは変態であることが求められた。八十年代半ば、家庭用ビデオデッキの普及に伴う急速なAV業界の発展は、ポルノ・ピンク映画の決定的な衰退をもたらし、従来のポルノ・ピンクファンは、エロ物から物語性、情緒性が失われてゆくことに限りない哀惜の念を覚えたものだった。

事実この時期、八十年代半ばから九十年代前半に掛けてのAVは、ラニング・タイムと予算の制約のせいもあり、ひたすらエッチを、それだけを追求していたと思う。そうやってエッチを求める若者や中年男の欲望を満たしつつ、古き良き日活ポルノやピンクを駆逐して行ったと。

数年間続けたビデオ雑誌でのAV評の仕事もやがて終わり、私はAVを全然見なくなった。正直、もう辟易していた。そして変態グロ作家、人でなし映画評論家の道を邁進して今日に至っているのだが……。

先日、ひょんなことから若手ドキュメンタリー(AV)監督の松江哲明氏に出会い、AV製作会社ハマジムを紹介していただき、数本のAVを見せてもらう機会を得た。DVDが中心だったが、まずラニング・タイムの長いのに驚いた。いずれも二時間から三時間ある。「おいおい、こんなに何時間もエッチを見せられるのかよ、溜まんないな」というのが正直な印象で、送られて来たDVDをすぐに見る気にはなれず、しばらくDVDの棚に放置したままでいた。

まず見たのは、「未確認淫行映像UFO」。UFOが目撃される町として一部で名高い羽咋市で、UFOを呼び寄せるべくひたすらエッチをし、UFOが姿を見せないからとまた改めてエッチをするという、それだけの話である。それだけの話ながら、実際に羽咋市にロケし、UFOを何とか捉えられないかと田舎町の広大な空と海を写すカメラに、作り手の一種の執念を感じた。次々に登場する女の子や男優たちのキャラが、また面白かった。ここには二十年ほど前に私が見まくったAVとは明らかに一線を画する、さすがに二時間半と長いだけはある、何かがあると。

続いて見た在日韓国人や在日中国人の女優や男優を主役とした松江監督の「Identity」。この<アイデンティティ>という単語に接した時、「UFO」で感じた、「これは、俺が知っていたAVとは何かが違うぞ」と思ったその<何か>の正体に気付いた。アイデンティティ、そう、アイデンティティなのである。

「UFO」「Identity」、さらに続けてみた衛星放送で放映されたドキュメンタリー番組「ハメ撮りの夜明け・完結編」、日本の北海道の最北端と東京と沖縄での監督たちの体験を描いた「Under Cover Japan」、いずれにおいても追求されているのは、作り手自身の、そして登場伊人物たちのアイデンティティなのである。

エッチはただのエッチでなく、肉体と肉体を交えることにより、自分自身を、そして相手の存在を確認する行為だ。人間は一人で生きているのでなく、他人と関わることにより自分を確認できるのであり、セックスはその最も重要な手段だ。さらに人間にはそれを取り囲む環境があり、自分の生きている風景との一体感は生きていることを実感する上で欠かせない。今回見た作品はいずれも、そういう意味でのセックスと、風景との一体感を大切に捉えている。これは、凄いことだと思った。

生活を取り囲む何もかもがデジタル化しつつある今、人間はアナログである本質を忘れつつある。だからこそ言いようのない疎外感に襲われ、無差別の通り魔的な犯罪に走ったりする。セックスは、人間が本質的にアナログな存在であることを思い出させてくれる、大切な手段なのではないか。DVDというデジタル技術の最先端により、セックスと言うアナログな人間の営みが追求されてゆく。これを私は、すごく面白いと思う。そのセックスを営む男女の背景、空が、海が、夜の町が、昼の街並が、人間の生活に深く関わる風景がきちんと描かれていればこそ、セックスが失われたアイデンティティを取り戻す行為として、ますますエロっぽく際立って行く。

私が見せてもらった四本のAVはその意味でいずれも、紛れもなくドキュメンタリーであった。作品のいずれも、冒頭に<NONFICTION>と銘記されていたが、まさにその通り、これらはエッチAVであり、人間のアイデンティティを追求するドキュメンタリーでもあった。
先に、二十年前にAVが登場した時、ひたすらお手軽にエッチ行為だけを追求するAVの出現のおかげで、物語的な面白さ、情緒的な感受性の豊かさを保持していたポルノやピンクが駆逐されてしまったと書いた。だがそれは、AVが出始めた時期の一時的な出来事でしかなかった。九十年代を経てAVが一つの表現手段として確立した今、AVはエッチと人間存在の本質をドキュメンタリー的に追求する手段となっている。単純に色分けするなら、劇場用のピンク映画(日活ポルノは残念ながらとっくの昔になくなってしまった)が物語、創作物としての面白さを今も追求しているとするなら、デジタル・ビデオを駆使して作られるAVはドキュメンタリーの面白さを発見しているのではないか。少なくともハマジムの作品は、齢五十に達する私を勃起させてくれるほど充分なおスケベに満ちていると同時に、ドキュメンタリーとしての面白さも併せ持っている。

限りなく存在する今日のAVのうち、私はわずか四本を見たに過ぎない。が、久々に見たAVに興奮すると同時に、こんな感慨を覚えた次第です。

text by 友成純一 (映画評論家)